爆音自動車の自意識

こっちのブログを完全になかったものとして扱っていたが、せっかくあるブログなので何らか書きたい。
ブログタイトルは変えるかも。丁寧に暮らすことへのカウンターとして最近雑に暮らすの流行っている感じがするので。


一昨日、駅前で窓全開·大音量の音楽を流している車を見た。

別に珍しい事ではない。
最近の私は「なんかあったら記事にしたろ」という意識がにわかに過剰なので、話のタネにいいと思い流してる曲がなんなのかをアプリで調べようかと思った。
このアプリは無駄に選曲センスがいい事で知られる西友で、買い物中に流れていたセンスのいい曲を調べる目的で入れており、近所に西友がなくなった今久々のお出ましである。

そうしてスマホを取り出そうとしたが、やめた。
爆音自動車の方をふと見た。片手を窓の縁から出してニヤニヤしながら信号を待つ男は少なく見積もっても40歳くらいだった。助手席にも後部座席にも人は居なそうだ。

怖い。どういう自意識なのかわからない。
産まれてからいままでにどういう人生を歩んだら、そんなに歳を重ねてまで、他にイキる仲間もなく「学校の放送室を占拠してロックを流してやったぜ」みたいなご満悦な顔ができるのだ。
もしかして善行だと思ってるのか。

あるいは社会への反抗だろうか。
駅前一帯をダサい曲で満たす事で「ざまあみろ」と思っているのか。
そう、曲が進んでいくうちにわかったが、曲がびっくりする程ダサいのだ。
多分街の人もうるささ以上に(何コレ?何何?)と思っていただろう。


おじさんが善行(あるいはその方がかっこいい思って)としてやっているのか社会への反抗としてダサい曲を流しているのかわからないが、この曲が何なのかをここで同定しようとすること自体おじさんの罠にハマっていると思った。
自意識不明おじさんの影響で曲を意識するなんて。
なんとなくその方が負けだと思った。
そうしてアプリの出番はまたなかったのだが、これを書いている今、私はきれいさっぱりその曲自体は忘れたので調べなくて良かった、勝ったと思っている。
調べたら「この曲か〜」と思っておじさんの影響が長引いたことだろう。

ただダサかったという記憶が残った。